夜のセーヌ沿いを歩いて帰る日があります。毎正時にきらめくエッフェル塔を対岸に眺めながら、今夜は何を開けようかと考える。
橋の上で立ち止まって、川風に当たりながらあれこれ迷う。この数分が、わたしの一日でいちばん贅沢な時間かもしれません。
贅沢といっても、お金の話ではないのです。星付きレストランで6年働き、いまワインを輸出する仕事をしていて、確信していることがひとつあります。
家飲みの満足度は、ワインの値段よりも「飲み方の環境」で決まる。
今日は「秋のワイン準備室」の締めくくりに、その環境を静かに格上げする3つの小さな投資の話です。グラス、香り、保存。安い順に並べます。

まずグラス。1,000円の物差し
最初の投資は、1脚1,000円ほどのINAOテイスティンググラスです。
世界のソムリエコンクールでプロの前に置かれる「基準器」で、パリ時代、店のテイスティングルームに並んでいたのもこれでした。
月曜の昼、来月のグラスワインを決める試飲は、必ずこの小さなグラスから始まったものです。同じ条件で注ぐと、ワインの違いが驚くほどはっきり見えます。
先週の1本と今週の1本を、同じ物差しで比べられるようになる。家飲みが「消費」から「観察」に変わる瞬間です。
なぜプロが一番安いグラスを選ぶのか、その種明かしはグラスの記事に書きました。
日常使いには少し素っ気ない道具ですが、まず揃えるならここからです。
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つぎに香り。鼻ではなく、語彙を鍛える
グラスを変えると香りが立つ。すると今度は「この香り、なんて呼べばいいんだろう」という壁に当たります。
ここで効くのが香りの標本キット、ル・ネ・デュ・ヴァンです。
ワインに現れる54の香りが小瓶に入った、いわば香りの辞書。カシスもなめし革も、実物を一度知れば、次の一杯から急に見つかるようになります。
名前を呼べる香りが増えるほど、同じワインが長く楽しめる。教材として値は張るので、3つの中では「本気になってから」の投資。
でも一度入った語彙は抜けません。同じワインが、年々雄弁になっていきます。
最後に保存。開けない自由を買う
そして沼の底が、コルクを抜かずに1杯だけ注げるコラヴァン。
5万円台の道具ですが、「1本開けたら飲み切らなければ」という圧から解放されて、月曜にボルドーを1杯、木曜にまた1杯という暮らしができるようになります。
ひとり暮らしや、夫婦で飲む量が違うご家庭ほど効き目は大きい。いいワインほど棚で眠らせてしまう方には、結局これが一番元を取れる投資です。
気づいた方もいるかもしれません。この3つ、どれもワインそのものではないのです。でも道具は1本のワインと違って、飲み干しても消えません。
同じ予算で高級ワインを1本開ける贅沢と、これから開けるすべてのワインが少しずつおいしくなる投資。
秋の夜長が続くこれからの季節なら、わたしは後者を取ります。
白状すると、わたし自身はこの3つを一番高いコラヴァンから買った人間です。
おかげで最初の頃は、立派な保存装置で普段のグラスに注ぐという妙な生活をしていました。順番は、ぜひわたしと逆でどうぞ。
7回にわたった「秋のワイン準備室」、今日でおしまいです。旅の話も、試験の話も、道具の話もしましたが、根っこはひとつでした。
ワインは、少しの準備で何倍もおいしくなる。逆に言えば、準備のないまま高い1本に手を伸ばしても、その値段ぶんの声はなかなか聞こえてこないのです。
秋の夜長の支度として、まずは1,000円のグラスをひとつ。届いた夜に開ける普段の1本から、あなたの準備室は始まります。


